国原譜
かつて本紙文化面の長期連載「映画時評」「…
かつて本紙文化面の長期連載「映画時評」「映画の窓」でおなじみだった映画評論家の田中冨士男さんが、3日に亡くなられた(6日付既報)。
田中さんは、奈良工業高等専門学校名誉教授という理系の先生。一方で、奈良シネマクラブの代表として、名作映画の上映会などを定期的に行い、各媒体で論評され、奈良における映画文化の発展に寄与された。
面識はなかったが、平成8(1996)年8月7日に「寅さん」こと渥美清さんの死が公表された折、談話を頂くために電話した時のことをよく覚えている。「西吉野村のロケ現場に行っていた」と話されていた。
寅さんへの談話は「…正月にもう“会えない”のが残念だ。…まじめで惜しい人を亡くした」だった。
のちに15年6月20日付「映画時評」で「奈良出身の映画監督、河瀬直美さんに初めて会ったのは1996年8月7日である。…帰りの車の中で渥美さんの訃報を聞いた」と書いておられた。
この中で、河瀬さんの作品に対して、時に優しく、時に厳しく評価されていた。教育者としてのスタンスが垣間見えた気がした。合掌。(恵)
田中さんは、奈良工業高等専門学校名誉教授という理系の先生。一方で、奈良シネマクラブの代表として、名作映画の上映会などを定期的に行い、各媒体で論評され、奈良における映画文化の発展に寄与された。
面識はなかったが、平成8(1996)年8月7日に「寅さん」こと渥美清さんの死が公表された折、談話を頂くために電話した時のことをよく覚えている。「西吉野村のロケ現場に行っていた」と話されていた。
寅さんへの談話は「…正月にもう“会えない”のが残念だ。…まじめで惜しい人を亡くした」だった。
のちに15年6月20日付「映画時評」で「奈良出身の映画監督、河瀬直美さんに初めて会ったのは1996年8月7日である。…帰りの車の中で渥美さんの訃報を聞いた」と書いておられた。
この中で、河瀬さんの作品に対して、時に優しく、時に厳しく評価されていた。教育者としてのスタンスが垣間見えた気がした。合掌。(恵)